[【小説】新興市場M&Aの現実と成功戦略]

2018年7月号 285号

(2018/06/15)

第39回『本国とPMI現場の精神的距離』

神山 友佑(デロイト トーマツ コンサルティング パートナー)
  • A,B,EXコース

【登場人物】

三芝電器産業 株式会社
Reddy Electricals (照明・配線器具製造子会社) への出向者 (CEO)
狩井 卓郎
Reddy Electricals (照明・配線器具製造子会社) への出向者 (営業管理担当役員)
小里 陽一
Reddy Electricals (照明・配線器具製造子会社) への出向者 (生産管理担当役員)
伊達 伸行
Reddy Electricals (照明・配線器具製造子会社) への出向者 (経営管理担当)
井上 淳二
Reddy Electricals (照明・配線器具製造子会社) への出向者 (経理担当)
朝倉 俊造
佐世保電器 (三芝電器産業の系列販売店舗)
店主
岩崎 健一
旗艦店の店長
古賀 一作

(会社、業界、登場人物ともに架空のものです)

(前回までのあらすじ)

 三芝電器産業の朝倉俊造はインドへの赴任を命じられた。1年半ほど前に買収したインドの照明・配線器具メーカー(Reddy Electricals)への出向である。
 インド固有の課題に悩まされ、そして創業家側の旧経営陣との軋轢を生みながらも、朝倉の先輩である日本人出向者達は、生産革新や流通改革に矢継ぎ早に取り組んでいった。
 朝倉の赴任も数カ月を過ぎた頃、インド全国への視察を終えた営業管理担当の小里陽一が本社に戻ってきた。そして小里のサポートを命じられた朝倉に対し、「代理店制度の廃止に加えて、抜本的な営業改革を断行したい」と言い放ち、朝倉にボード・ミーティング向けの企画書を作成させた。
 苦労しながらも何とか企画書の承認を勝ち得た朝倉は、すぐに改革を走らせようとする。しかし三芝電器には直営営業所の営業ノウハウが存在しない。本社からのサポートを得られなかった朝倉は、新入社員当時に実習で派遣された故郷の諫早電器店に電話した。そして10年以上前に研修で世話になった店主から、県内で優秀系列店として有名だった佐世保電器店の岩崎を紹介された。岩崎は腹心の古賀を連れてムンバイの地に降り立った。そしてレッディ社の直営店舗に対する、岩崎と古賀からの非公式な教育が開始された。
 そんなある日、本社に戻った朝倉は営業担当取締役である小里に声をかけられ、目下の営業改革について議論が始まった。議論は狩井宅での恒例の合宿議論に持ち越され、最終的に本社から投資を呼び込む手段としてコモンウェルス・ゲームズが活用されることになった。全員が一丸となり本社や関係会社との折衝に取り組んでいる中で、今度は製造管理担当の伊達から狩井に納入部品に関する問題提起がなされた。
 日本では考えられないようなトラブルに日々見舞われていたが、狩井はじめ日本人駐在員は徐々にインドでのビジネスの手ごたえをつかみつつあった。そしていよいよ、新たな外部の血を取り込みながら、本格的なPMI=M&A後の経営改革の幕が切って落とされた。


帝国海軍方式

 役員会で狩井から「Better Workplace」 プロジェクトの組成が命じられ実務リーダーに選ばれた朝倉は、主要な工場とオフィスの初期的な視察を始めていた。しかし各拠点は訪問自体を警戒し、朝倉が把握したかった「現場の職場環境の実態」はなかなか掴むことができなかった。
 本社に戻った朝倉は、製造と営業のトップである伊達と小里を昼食時間につかまえ、視察の進め方について相談することにした。その日は水曜日であり、日本人駐在員のランチはデリバリーのピザとコーラだ。日本にいるときは昼飯にピザとコーラなど食べたいと思わなかったが、朝倉はもうすっかり慣れていた。
 もともと日本人駐在員にとって、レッディ社本社で安心して食べられるランチの選択肢は最初から多くない。社員食堂はローカル向けで、基本的にはカレーしかないのだ。オフィスの外にふらっと出かけて昼飯を食べに行くというのも、距離的にも時間的にも、そして治安の意味でも取り得る選択肢ではない。たまに日本からかなり高位の出張者が来た時には、社用車で大渋滞の中を片道1時間近く走りホテルのレストランまで昼食を取りに行くこともあるが、往復3時間という時間的ロスはあまりに大きい。
 結果的に駐在員の昼飯はデリバリーに頼らざるを得なくなる。しかしデリバリーは小ロットでは注文を受け付けてくれない。駐在員全員がまとまって同じ店に注文しなければならない。その結果自然と曜日別にランチを頼むデリバリー業者が決まり、日本人駐在者は毎週規則正しく同じメニューを食べるようになったのだ。
 最近加わったある日本人駐在員は、この規則正しい繰り返しの昼食を「曜日を忘れないための帝国海軍方式ランチ」と揶揄し、出張者が来るたびに昼飯の乏しさを訴えていた。

駐在員が置かれた環境

 「なるほど。ダナンの工場もシャットアウト・モードで、ろくすっぽ視察ができなかったか」
 朝倉の話を聞いた伊達が、ほとんど冷めかけのピザを食べながら話し始めた。
 「そうなんです。すごく丁寧に対応はしてくれるのですが、まずもって視察の要である工場内に、なかなか立ち入らせてくれませんでした。応接室に工場長はじめ幹部の方々が続々と現れ、私が知りたいことを聞き出し、それに口頭で答えて終わらせようとしているかのようで……」
 朝倉がそう答えると、伊達はピザを皿に戻しつまらなそうな表情で呟いた。
 「しかしこのピザ、何とかならんのだろうか。日本でも展開しているメジャーなチェーンだろ。なぜこんなに生地がモッサリ分厚くて、具もチーズもソースも少ないんだ。小さいころに、田舎の喫茶店で出てきたピザトーストのほうがよっぽど旨いぞ。別に熱々のナポリピザを出せとか、クリスピー生地のサクサクのピザを出せとは言わん。しかし世界に展開している名だたるピザチェーンであれば、もう少しの工夫があってしかりだと思わんか。俺はBetter Workplaceの取り組みテーマとして、このピザ問題を提起したい」
 朝倉が呆れ顔でいると、小里が冷蔵庫からトマトソースとチーズを出し、伊達の前に置いた。
 「インドで出されるものが口に合わなければ、後は自分でアレンジして食うのがルールだ。トマトソースとチーズをのせて、電子レンジでチンすれば十分な味になる。我々が喰らっているこのピザ1食分は、本社地区の工場ワーカーのランチ代10日分以上だ。不味いと不満を言う前に、その価値と有り難さを噛みしめて工夫すべきだ。そもそもまずもって、お前たち日本人駐在員はローカル社員が食べているものにチャレンジしてだな……」
 小里がそこまで言うと、伊達が「わかった、わかりました。冗談です。感謝して食べます」と言葉を遮った。朝倉は呆れながらも、文句を言いたい伊達の気持ちも理解できた。

食が細る駐在員

 日本の三芝電器本社や工場には、巨大な食堂が何カ所も設置され、従業員の健康に配慮した食事が当たり前のように提供される。配膳業者は定期的にコンペティションで入れ替えが行われるため、安価ながらも味は一定以上の品質が保たれている。専門の栄養士が考案するメニューは、年齢や体調に合わせて多様な選択が可能だ。また仮に社員食堂が充実していなくとも、日本に限らず欧米やほかのアジア諸国の場合には、ふらっと町に足を運べば安価で旨いものがいくらでもある。
 しかしここインドではそれが叶わない。
 レッディ社はもともと週6日勤務で、買収後の改革が本格化した昨今では、毎日遅くまで残業が続いている。残業が続けば、昔のように平日夜に狩井宅で合宿飯にありつける機会も大きく減る。そしてたった1日の貴重な休みである日曜日も、出かける場所はかなり限られる。治安と衛生の両面で安心できる、ショッピングモールをひながうろつくのがせいぜいだ。結果的に平日の気心知れた仲間との昼食は、日本人駐在員にとって数少ない娯楽であり気晴らしになっていた。
 そんな重要な意味を持つランチのメニューが「帝国海軍方式」なのだ。毎週固定的で、しかもお世辞にも満足できるクオリティとは言えない。そして伊達のように声高に文句を言うか言わないかにかかわらず、この昼食問題は駐在員の心や身体に少なからず影響を及ぼしていた。
 昼飯にピザとコーラ、もしくは仕出しの脂っこい弁当などを毎日食べ続ければ、ふつうは体重が増えていきそうであるが、日本人駐在員の体重は一様に減少し続けている。もちろん、時折お腹を壊すというインド特有の事情も影響している。しかしそれ以上に、食が細くなっていることが一番の原因であった。昼食のピザも弁当も、食べきれずに残ってしまうことが殆どだ。狩井の手料理である合宿飯が減ってからは特にそれが顕著になった。
 朝倉が目下取り組んでいる「Better Workplace」プロジェクトは、あくまでもレッディ社のローカル従業員の職場環境が対象だ。当然ながらローカル従業員の職場環境は、日本人駐在員が置かれた状況に比べるまでもなく、劣悪で改善が必要なことは間違いない。
 そんな中で冗談にせよ、日本人駐在員が本社オフィスでピザを食べながら自分たちのWorkplaceに文句を言っていることなど、ナンセンス極まりないと断じられるだろう。しかし朝倉は心のどこかで、「日本にいる同僚は、我々が日々置かれている状況をどこまで理解してくれているのだろうか」と考えずにはいられなかった。

精神的な距離感

 買収した会社の実態の職場環境を把握し、Workplace改善に取り組む。必死に知恵を絞り汗もかく。朝倉はこの取り組みに何の違和感もなく、むしろ使命感に似たものさえ存在する。一方で、そんな取り組みを必死に進めようとしている自分たち駐在員のことを、日本側はどこまでリアルに想像がついているのだろうか。

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