[寄稿]

2022年8月号 334号

(2022/07/11)

人的資本の価値創造プロセスと評価手法

~投資家への情報開示とM&Aへの示唆~

池谷 誠(アルファフィナンシャルエキスパーツ マネージングディレクター)
  • A,B,EXコース
1. はじめに

 近年、人材が組織の持続的成長や価値創造の担い手であるという認識の下、人的資本に係る情報開示への関心が高まっている。本年6月、金融庁の金融審議会ディスクロージャーワーキング・グループによる報告書が発表され、人的資本に係る開示として、中長期的な企業価値向上における人材戦略の重要性を踏まえた「人材育成方針」や「社内環境整備方針」について、サステナビリティ情報の記載欄の「戦略」の枠の開示項目とすることが明示されている。また、昨年6月に公表されたコーポレートガバナンス・コード(CGコード)においては、人的資本への投資が設備投資や研究開発投資と同様、経営者が説明すべき重要事項として位置づけられている。

 しかし、人的資本に係る開示が進んだとしても、人的資本を金銭的価値としてどのように評価するのかについては、確立した理論や手法が存在しない。投資家としても人的資本について、どのような情報が価値評価にとり重要なのか、また、それを用いてどのような評価が可能なのか、必ずしも明らかではない。

 人的資本に係る開示について関心が高まる中、国際的な価値評価についての標準設定機関であるIVSC(国際評価基準審議会)はこのほど、人的資本の評価に係るPerspectives Paper(注1)(以下、「IVSC論考」という。)を発表した。IVSC論考は人的資本の評価に係る規則やガイドラインを示すものではなく、今後の議論の基礎を提示するにとどめているが、人的資本の価値創造プロセスにつき理論面の整理を行い、価値創造が従業員一人一人の個別の貢献だけではなく、チーム内部での相互のシナジーも生じること、さらに人的資本以外の他の無形資産(技術やブランド等)との間でもシナジーが生じ、価値を創造すると述べている。また、人的資本の評価方法として、従来、再調達コスト法が用いられる場合があったものの、上記のような特徴を考慮すると適切でなく、対象とする人的資本を得られなかった場合の逸失利益を基礎とするなど、人的資本の希少性を考慮した手法が適切である可能性を示唆している。

 本稿では、IVSC論考に基づき、人的資本の価値創造プロセスについて考察し、上記プロセスへの理解が企業にとって効率的な人的資本への投資を支援し、また、投資家に対する情報開示においても、適切なストーリーを伝えるうえで重要な意味を持つことを議論する。また、人的資本を個別に評価する必要性は限定的ではあるものの、人的資本が重要性な意味を持つM&Aなどの局面において、人的資本の取扱いが重要な意味を持つほか、評価手法としても、IVSC論考が提示するWWM(With and Without Method)などの手法が役立つ可能性があることを紹介する。

2. 価値創造プロセス

 他のすべての価値評価の場合と同様、人的資本の価値評価のために最初に求められることは、人的資本がどのように価値を創造するか、そのプロセスを理解することである。企業に所属する従業員(役員等も含む。以下同。)は企業活動のほとんどすべての局面に関与し、その能力やスキル、経験などを用いて企業の価値創造を下支えしている。このため、無形資産の中でも人的資本は経営の根幹に位置づけられるべきものであり、その意味で人的資本の価値創造は企業価値の創造プロセスの中核に位置すると言われる(注2)。そして、経済が知識集約型にシフトしていく中で、自社の人的資本が企業価値のどの程度を占めているかを知ることは、人的資本への投資を含む資源配分を効率的に行ううえで重要な参考情報となるといえる。

 しかし、人的資本の価値創造は複雑である。従業員一人ひとりが独立的に価値を提供しているのではなく、他の従業員と多様なコミュニケーションを行い、知識や経験を集積し、互いに補完しあい、多数の協力の下で発案し、判断するなどのプロセスにより価値創造が行われる。従って、IVSC論考によれば、人的資本の価値創造プロセスにおいて特徴的なのは、第一に、企業に所属する従業員個人の知識やスキル、経験などの単純な合計があまり意味を持たないことである。むしろ、これらの個別要素が従業員全体の中でお互いに補完することによって新たな価値が生まれること、つまりシナジーが生じることが特徴的であるといえる。このような特徴を持つ人的資本は、他の無形資産と同様、コストと価値の関係が明確でなく、人材獲得のために支払った費用や給与などの総額が必ずしも人的資本の価値を表すわけではない。また、他の要素との関係も直線的ではなく、例えば、技術者の数と人的資本の価値が必ずしも比例するわけではない。もちろん、シナジーの発現の仕方も様々であり、例えば能力やスキルが高い1人の従業員が価値創造の中核的役割を担っている場合、シナジーは限定的かもしれない。一方で、多数の従業員が有機的に連携し、集合知(多数の参加者による知識や情報が集積され,体系的に構築された知識)により意思決定が行われるような場合にはシナジーの度合いが大きい可能性がある。また、このような特徴は、全ての業界に一様に生じるというわけではなく、資本集約型のビジネスモデルでは弱く、知識集約型のビジネスモデルではより強く表れるものといえる。

 人的資本の価値創造プロセスに係る第二の特徴は、IVSC論考によれば、人的資本と他の無形資産との間にもシナジー、あるいはネットワーク効果が生じることである。つまり、技術やブランド、顧客リレーションなどの無形資産は、それ自体でも価値に係る特徴を持つが、これらの無形資産を使ってどのように価値を想像するかは、それらを活用する従業員の知識や経験、スキルなどによって大きく変わりうる。反対に、従業員が知識や経験、スキルを用いて価値を創造するプロセスに、無形資産を追加することで追加的なシナジーが生じる場合もあるだろう。また、ネットワーク効果について例示するとすれば、例えば、ある技術分野において企業が重要な新規技術を開発した場合、その技術に関心のある技術者が集まり、高度な人材の獲得が可能になるかもしれない。

 IVSC論考では、上記のような人的資本に係る特徴を考慮すると、人的資本の経済的な耐用年数(economic life)も従来型の資産とは異なる検討が必要であることが示唆されている。すなわち、従業員個人のレベルでは、人的資本の耐久年数とは従業員の離職までの期間であるが、企業全体の人的資本は、個々の従業員が入れ替わっていくとしても、知識やスキルを受け継ぎ、より長い期間において人的資本を維持、強化していくことが可能である。

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