はじめに 「企業によるESGへの取り組みは企業価値を向上させるのか?」
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によるパンデミック以前から株式市場を中心にESGへの注目が集まってはきているものの、長い期間にわたって、この命題に明確な解が見出されていない。これまでもESG投資と企業価値の関係性は議論されてきたものの、その多くは定性的な整理に留まっており、最近ようやく定量的な分析を試みる取り組みが散見されるようになってきた。しかし、それらの事例の多くは株価や将来キャッシュフローに関する分析に留まり、さらに踏み込んだ
企業価値評価の観点から細分化して分析した事例はほとんど見受けられないと感じる。
そこで本稿では、企業におけるESGへの取り組みが企業価値に与える影響を企業価値評価の観点から見い出すべく、グローバルな上場企業を対象にESGスコアと資本コストの計算におけるベータの関係性について、統計的アプローチを使った分析・検証を試みることにした。
企業価値の構成要素 ESGへの取り組みと企業価値の関係性を検証するにあたり、まず企業価値の構成要素について理解した上で、ESGへの取り組みが各要素に対してどのような影響を及ぼしうるかについて言及したい。本稿においては、多くの企業における投資判断で使用されている従来のファイナンス理論に基づく企業価値をベースに考え、特にインカムアプローチによる企業価値評価を前提に検討する。
インカムアプローチは、事業が将来生み出すことが期待されるキャッシュフローを、それに見込まれるリスクを加味した割引率で割り引いて企業価値を算出する方法である。そのため、単純化すると、主にキャッシュフロー、資本コスト、成長率の3つの要素で構成される。
キャッシュフローとは、事業から得られる利益から必要投資を差し引いた後に残るキャッシュのことであり、キャッシュフローの増加は企業価値の増加をもたらす。また、キャッシュフローの年々の成長率についても企業価値の計算の構成要素となっている。
他方で、資本コストとは、資本市場における投資家が企業に期待するリターンのことであり、企業価値を算定する場合には通常負債のコスト(Cost of Debt)を加味したWACC(Weighted Average Cost of Capital:
加重平均資本コスト)が採用されるが、議論が複雑になることを避けるためにも、本稿においては
株主資本コスト(Cost of Equity)に焦点を当てて議論することとする。なお、株主資本コストについては、企業価値評価の実務において一般的に採用されるCAPM(Capital Asset Pricing Model:資本資産評価モデル)に基づき、簡素化し以下のように定義することとした。
資本コスト(株主資本コスト)=リスクフリーレート+資本リスクプレミアム×ベータ さらに、上記構成要素におけるベータとは、株価の動きが市場全体の値動きに対してどの程度乖離しているかを表しており、ベータが高い株式はリスクが高く、ベータが低い株式はリスクが低いと考えられる。ベータには、個別株式の収益性や資本構成などの定量的な評価の他に、事業ポートフォリオや財務健全性、レピュテーションなどの定性的な評価も反映されるものと考えられる。
ESG対応による企業価値への影響仮説
キャッシュフローへの影響 カーボンニュートラル、人権尊重への対応(人権DD:人権デューデリジェンスなど)、ダイバーシティに向けた社内ルールの見直しなどの取り組みは、短期的には変革に伴う支出の発生などキャッシュフローのマイナスとして影響する。しかし、環境リスクの低減や法的リスクの緩和、レピュテーション向上に寄与する他、GHG排出量の少ない設備や社会貢献事業などへの投資により事業ポートフォリオが最適化されることで、長期的には企業全体のキャッシュフローの増加をもたらすことが期待される。ただし、プラスの効果がキャッシュフローに反映されるまでに長い年月と相当規模の投資が必要であると考えられる。
成長率への影響 ESGへの取り組みを新規事業や既存事業の中核にまで発展させることで、新たな顧客や取引先の開拓等につながり、パフォーマンスの向上につながることが期待される。他方で、ESGへの取り組みが、必ずしも直接的に新たな事業機会や既存事業の成長に関係しているとは言えず、関係している場合でも長い年月を要することが予想され、ESGへの取り組みが直ちに成長率の上昇につながるとは考え難い。
資本コストへの影響 資本コストは資本市場で要求されるリターンであり、投資家は市場全体の動きに対する感応度が高い株式に対してプレミアムを要求する。ESGへの取り組みは、長期的な事業環境保全やステークホルダーとの関係性の保持、レピュテーションの毀損防止などにつながるものと考えられる。さらに、情報開示やステークホルダー・エンゲージメントを通じて高い透明性を確保することにより、企業における不確実性の逓減も見込まれるため、市場全体の動きに対する感応度が低くなり、資本コストが低減することが考えられる。それに対して、ESGへの取り組みが消極的な企業は不正、事故、災害などの不測の事態を招くリスクが高まると考えられるため、投資家は高いプレミアムを要求すると予想される。
なお、PwCグローバルネットワークにおいても上記の3つの仮説を用いてESGと企業価値の関係性について議論を開始しているが、本稿では特に「資本コストへの影響」に関する仮説に焦点を当てて検証することとした。
ESGへの取り組みに係る評価指標 企業価値に内在する非財務価値へ着目することとそれに伴うESG投資が増大する中、企業におけるESGへの対応状況を示すESG評価(ESGスコアなど)の活用が機関投資家に広がっている。
各ESG評価機関は独自の評価基準を設定しており、ESG評価は数値や格付符号により示される。そのため、企業のESGへの取り組みについて地域や業種を横断した相対的な位置づけを簡便的に把握することができる。一般的には、業種ごとにESG課題の中でも重要性が高く投資判断に有用な項目を特定し、企業の開示情報やニュースなどの公開情報や企業への質問票を活用した調査・評価を行うことにより、ESG評価を機関投資家に提供している。
機関投資家は投資判断や投資ポートフォリオ管理においてこれらのESG評価を活用するとともに、ESG評価をベースとしたESG株価指数に連動するパッシブ運用も広く普及している。また一部の機関投資家は、ESG評価の低い企業の取締役選任への反対やESG評価が著しく悪化した場合に投資先からの撤退や売却を検討するなど、投資先企業に対するエンゲージメントの判断材料として用いられる例も出てきている。
ESG評価を巡ってはその重要性が増す中、ESG関連事業の強化を進めるグローバル大手の株価指数算出会社や信用格付会社、金融情報サービス会社などのESG評価機関の買収・合併により合従連衡が急速に進展しているものの、依然として数多くのESG評価が存在する(表1)。