[【小説】新興市場M&Aの現実と成功戦略]

2015年5月号 247号

(2015/04/14)

第1回 『着任』

 神山 友佑(デロイト トーマツ コンサルティング パートナー)
  • A,B,EXコース

【登場人物】  三芝電器産業の朝倉俊造はインドへの赴任を命じられた。半年ほど前に買収したインド企業への出向である。
  不安を抱えながらムンバイに降り立った朝倉は、早速インドの洗礼を受けることになった。


到着

  朝倉俊造は正午過ぎにムンバイに降り立った。
  成田からムンバイまで、デリーでのトランジットも含め17時間ほどのフライトである。ようやく窮屈なエコノミー座席から解放され、半ば呆然とした気持ちで朝倉は荷物がターンテーブル上に出てくるのを待った。
  朝倉は大きなスーツケースを引っ張り上げると、「インド赴任の始まりか」と小さくつぶやいた。周りは見るからにインド人だらけで、日本人は見当たらない。彼らの多くは荷物が出てくるのを待ちながら、携帯電話で何かを熱心に話している。飛行機が着陸するなり電話をかけだす者さえいた。
  朝倉は手荷物に気を配りながら出口に向かった。同僚が迎えに来てくれているはずだ。
  到着ゲートは多くの人でごった返している。プレートを掲げ、誰かを迎えに来ている人たちだ。朝倉を迎えに来てくれる同僚とは、これまでメールと電話のやりとしかなく顔を合わせたことがない。朝倉は日本人の顔を探して歩き回った。しかし一向に見つからない。到着ロビー内を端から端まであるき、何度も同じところを見て回った。しかし同僚らしき顔は見つけられなかった。
  朝倉は携帯電話を取り出すと、予め伝えられていた番号にかけた。しかし話し中のような音が聞こえるばかりで、電話はつながらない。試しに日本の本社に電話をかけてみた。もしかすると誰かがメッセージを受け取っているかもしれない。しかし同様に電話は全くつながらなかった。携帯電話の電源を何度か入れなおして試したが、状況は全く変わらなかった。これは朝倉の携帯電話の問題ではなく、ムンバイの通信インフラの問題であることをほどなくして理解した。
  電話をあきらめると、朝倉はカバンからノートパソコンを取り出した。同僚からメールが来ているかもしれないと考えたのだ。スーツケースを横に倒し、その上に腰かけてパソコンを開いた。ネットが使えないと家族との連絡に不都合が生じるかもしれないと考え、朝倉はインド用の無線ルーターを個人契約し持参してきた。契約期間はとりあえず1カ月だけだが、様子を見て延長するか返却するかを決めようと考えていた。
  しかし無線ルーターも携帯電話と同じ状況であった。Wi-Fiにはつながるが、インターネットには全くつながらない。メール受信もWeb閲覧も何もできない。試しにスマートフォンでも試してみたが、同じ状況だった。
  朝倉はどうしたものかと頭を巡らせた。電話もネットも通じない状況など日本では想像していなかった。もっというと、日本では当たり前すぎる環境であったため、それらが使えないという事態に根源的な無力感さえ覚えた。どこにも繋がっていないということが、こんなにも恐ろしいことだとは考えてもみなかった。考えてみれば、大学1年生の時に初めて欧州に行った時は、同じような状況だったかもしれない。しかしインドは予備知識が全くない分だけ、欧州よりも無力感が強い気がした。
  公衆電話はないかとあたりを見渡してみたが、それらしきものはない。思い切って、周りのインド人が使っている携帯電話を借りてみようかとも考えたが、そこまでの踏ん切りはつかなかった。どのように反応されるかが、まったく読めないのだ。
  朝倉は途方にくれながら、空港ロビーに座り込み続けるしかなかった。時折もの珍しそうにインド人が朝倉のことを覗き込んでくる。日本だと視線を向けること自体が失礼なことだが、無遠慮に何人もの人が朝倉のほうをジッと長く見つめてくるのだ。
  朝倉はパソコンの入ったカバンを足の間にしっかりと挟みながら、「どうしたものか」と頭を抱えた。

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