[【人事】「M&A人事の新常識」~グローバルの年金・ベネフィット最新事情(マーサー ジャパン)]

(2021/08/10)

【第1回】人事DDの新常識

北野 信太郎(マーサー ジャパン グローバルクライアントマネージャー シニアプリンシパル)

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 「常識」とは英語で”Common sense”と訳される。このCommon sense、直訳すると、「共通の感覚」とでも訳されるだろうか?ある社会において共有されている価値観や物事を指すわけだが、当然ながら対象となる社会が変われば常識自体が共通認識とならないこともあり得る。

 本連載ではシリーズでM&Aにおける人事DD(デュー・ディリジェンス)の際のベネフィット制度にかかる「常識」を疑いの目をもって考察し、新たな常識を提示したい。

 人事DDの際に非常な注意を持って取り扱われる項目の一つに年金関連の債務評価がある。これは企業年金が人事制度の一部でありながら、非常に長期に亘る債務性を持つからであり、財務インパクトの観点から、年金数理人などの専門家による債務額の妥当性などが検証される。ここでの「常識」とは一般に以下のようなものではないだろうか。

常識: 財務諸表で計上されている退職給付債務の計算の妥当性を検証し、適切な会計基準上の積立不足額をネットデットとして取り扱う

 M&Aの教科書などでは、ネットデットとして扱う際に、退職給付関連費用をEBITDAの計算から除外し、二重計上にならないように、というような留意点については触れられているものの、ネットデットの計算に、会計上の債務である退職給付債務を用いることの妥当性については論じられていないように思う。ここに常識の抜け穴があるのではないだろうか。

 Common sense、つまり共通の感覚という考え方に基づくと、上記の常識は実は海外ではもはや共通の認識ではなくなっている。海外のM&Aの実務においては、退職給付債務をネットデットの計算時の評価として用いることは適切ではない、という考え方が主流になりつつある。

 海外ではゴーイングコンサーンを前提として評価される会計上の債務ではなく、清算価値ベースの評価方法を用いることが新たな常識だ。例えば、年金バイアウトと呼ばれるような、保険会社への年金債務の売却の際に必要となるようなコストこそ、M&A時の債務評価にふさわしい、という考え方だ。

 図1はマーサーが四半期ごとに発表している、マーサーグローバル年金バイアウト指数の表である。縦軸は年金バイアウトに必要なコスト(=保険会社の見積もりの債務)に対する、会計基準の債務を%で表記し、横軸は時間である。つまり、例えば一番下の水色の表すアメリカの場合は、一番左の2020年3月では会計コストの約102%で保険会社は債務を引き受けていたが、同時期のアイルランドの場合は、120%ほど必要という事だ。これを見てわかる通り、多くのケースでは会計上の評価よりも高いコストをかけないと、保険会社は債務を引き受けてくれない、という事になる。その理由は、保険会社は会計上の債務評価に加えて、年金制度の内包するリスクやそれに備えたリスクキャピタルのコスト、事務管理や保険会社の利益マージンなども含めた前提で評価するためである。

図1:マーサーグローバル年金バイアウト指数

 なぜ世界の常識では、M&A時の年金債務評価にバイアウト基準を用いることが適切となってきたのか?それは買い手の企業が確定給付型の年金債務を忌避するようになったからである。

 冒頭でも述べたとおり、確定給付型年金制度の債務は大きな財務インパクトを持ち、場合によっては母体企業と同じか若しくは凌駕するほどの規模を持つ年金制度も存在する。一方で、当たり前ではあるがこういった年金債務のもたらすリスクは基本的にノンコア・リスクである。つまり、本業とは全く関係の無いリスクという事であるが、このようなリスクテイクが果たして企業価値の向上に寄与するのだろうかと聞かれたら、答えは(ほとんどの場合)ノーである。何故ならば、例えば年金制度の資産運用などはリスクをもたらすがそのような市場リスクは、別に投資先の企業や年金制度を介さなくとも、株主が自身で取れるリスクだからである。しかも本業ではない市場リスクに不慣れな担当者が運用したところで、株主の満足するような結果に繋がらないことは自明であろう。

 そのような企業の確定給付型年金制度に対する見方の変化を受けて、多くの企業では確定給付型から債務の残らない確定拠出型の制度への移行を進めてきた。本邦においても、多くの企業が確定給付型制度を閉鎖・凍結し、確定拠出型に切り替えているのは読者も周知のとおりである。また、将来の積立を確定拠出型に移行するだけではなく、既にたまった年金債務をバイアウト等の手法を用いて、徐々に減らす動きも欧米を中心に加速している。

 そのような年金債務を減らすよう苦心している企業にとって、買収する際の年金債務評価を会計ベースで行う事は完全に誤りである。何故ならば、最終的に買収した企業の年金債務を清算する場合、上記の通り年金バイアウトに必要なコストは会計基準の債務を上回るため、バイアウト時の追加コストは買い手の持ち出しとなるからである。そのような追加コストをあらかじめ企業評価に含めておく、つまり、バイアウト基準で債務評価することが正しい、ということになる。

 もっとも、上場企業の株式取得であればプライシングの妥当性の話で済むのだが、事業の切り出しや子会社の買収等、売主が居る場合は、読者の中には売手との交渉がまとまらないのではないか、と懸念される向きもあるかもしれない。これまで会計基準での評価が当たり前だった時代から比較すると、10%単位で高い債務を用いてネットデット評価されるわけなので、売手から反発を受ける可能性を懸念することは容易に理解できる。

 そういう場合は売り手と上手く交渉することだ。具体的には、年金債務を承継する場合はバイアウト基準でプライシングするぞとちらつかせ、さもなくば年金債務を承継しないで引き取れ、と売り手と交渉するということである。もし売却する事業が年金債務も合わせて持って行ってくれるとすると、売手の連結ベースの立場からすると年金債務の清算という事になる。もしこれがM&Aでなければ、バイアウトベースの追加コストが必要となった訳なので、売手の視点からすると、バイアウト未満で債務を引き取ってくれれば大儲けという事になる。なので、そういう売手の思惑にはNoを突き付けつつ、年金債務を引き取る場合はバイアウト基準、若しくは年金債務を売手に残す、という形で交渉すると、目先のキャッシュの欲しい売手は売却価格を減らさないように、年金債務を引き取る、という形で決着することも珍しくない。

 そういった新常識を理解していないと、無邪気に会計基準ベースの積立不足で交渉をまとめてしまい、交渉における売手の渋い顔の裏の、ほくそ笑んだ姿を見逃してしまうこととなる。

 最後に、ここまでは日系企業の海外事業の買収のケースを想定して書いてきたが、逆に日本国内の買収案件の場合についても触れてみたい。

 一例として、海外の買い手、特にファンドなどの場合について考えるが、そういったファンドも企業価値の最大化の観点から、年金のリスクを不要なものと捉えることがほとんどである。そのため、デューデリ時点から、対象が確定給付型の年金制度を持っているという事が分かると、債務を売り手に残してくることは出来るのか、債務を承継したらバイアウトして清算することは出来るのか、とほとんどテンプレの様に聞かれるのが通常だ。

 ただ、日本には年金債務を引き受けてくれる保険会社は存在しないので、年金バイアウトは実施できない。ただ、その場合でも、現行の確定給付型制度を確定拠出型へと移行し、過去の債務を移換または分配することで債務を清算することは可能、と説明している。無論、組合や従業員との労使協議は必要だし、場合によっては追加で色をつけないと制度移行に同意が取れないかもしれない。

 しかし、こういった買い手は海外でも追加コストを払ってでも年金債務を削減してきた、筋金入りの年金債務カッターたちだ。日本においても追加コストが発生したとしても労使交渉を何とかまとめ、年金債務の清算を進めるためには、労力もカネも厭わない人たちである。繰り返すが、こういった人たちにとって、永久に年金制度を持ち続けるゴーイングコンサーンベースの会計債務はほとんど意味を持たず、確定給付型年金制度を終了するために必要なコストこそ、彼らの一番知りたい、「新常識の年金債務評価」なのである。


マーサー ジャパン

■ 筆者略歴

北野 信太郎(きたの・しんたろう)

グローバルクライアントマネージャー シニアプリンシパル 英国アクチュアリー会正会員

マーサーのプリンシパルで、グローバル・クライアント・マネジャーとして日系グローバル企業の海外拠点の人事・福利厚生制度のガバナンス体制構築並びに運営を主に支援。日本におけるマルチナショナルクライアントセグメントのHealth/Wealth領域のリーダーを兼任。
現職以前はマーサーの年金コンサルティング部門の代表を務める。年金コンサルティング部門では、日系グローバル企業に対する海外の年金制度のコンサルティング・サービスを創設し、欧米での年金バイアウトやクロスボーダーの年金デューデリジェンス、米国401kの被差別テストや制度統合、グローバルアクチュアリー等のサービスを立ち上げる。その他、国内でも制度設計や企業合併・買収等の支援、労使交渉支援等、幅広くプロジェクトを担当する。社外での講演や専門誌等への寄稿等も多数行う。
マーサー入社以前は、英国ワトソンワイアット(現ウィリスタワーズワトソン)で年金数理コンサルティングの業務に携わる。
ロンドン大学インペリアル・カレッジ大学院で数学の修士号を取得し、英国アクチュアリー会の正会員である。



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