[ポストM&A戦略]
2017年11月号 277号
(2017/10/17)
買収の際には、売り手と買い手の間で、クロージングから1年間ないし2年間、既存従業員の処遇を全体に維持する(下げない)、という主旨の合意がされ、買収契約書にその旨が盛り込まれることが多い。その意味するところは、処遇を下方に調整する場合は、この期間(Comparability Period)が明けてから実施する、ということである。
一方で、このような取り決めがなくても、処遇の何をどのように調整し、従業員とどのように対話するかというのは、本来相当の検討が必要な事項である。もし買収検討時に、すでに処遇調整が必要とわかっていたとしても、丁寧な企業運営を志向する以上は、実際問題として買収後にすぐ手を打つことはできない。
しかし、だからと言って手を打たなくてもよくなるわけでは到底なく、また、例えばその後の買収先の業績の悪化により、事業サイドから総人件費の見直しの要請があるなど、急遽、この問題が重要な人事課題に格上げされることもある。
今回は、PMI(Post Merger Integration)の一環として、Comparability Periodが明けるに先立ち、買収先の従業員処遇を市場と整合させる検討をどのように進めるのか、その考え方とプロセスを解説する。
なぜComparability Periodが設けられるのか
M&Aでは、買い手の考え方や事情は様々であるから、売り手が買収後の買い手の行動を制約したいと考えることもある。その場合は、それを具体的に買収契約書に謳って、合意するのが最もはっきりしたやり方だろう。従業員の雇用や処遇条件の保障は、その一例である。売却後、すぐに大々的な解雇や、処遇の切り下げを買い手に実行されたのでは、売り手の社会的な信用問題にかかわるからである(Reputation Risk)。もちろん、「未来永劫にわたって手を付けられない」という条件を付けたのでは買い手がつかないから、この制約は合理的な範囲に限ることが必要で、それが期間1‐2年、ということである。
一方で、現実的にそのような心配があまりない買い手だとしても、買収契約書に通常入っているような条項を取り除くには、それなりの検討と判断が必要になるので、特に議論はないが念のため入れておく、ということでもあろう。
従業員の処遇を見直すニーズはどこから出てくるのか
従業員の処遇は、そもそも買収先において、事業運営とそれを支える従業員のあり方(人材マネジメント)をどのように一体的にデザインするか、という大きな問題の一部である。例えば、事業戦略を買収後に大きく転換する場合では、今後の事業上のニーズに照らしたときに、今の従業員の質が高すぎたり、逆に低すぎたりすることが考えられる。また、従業員の質と処遇のコストは、密接に関連する。このようなことから、事業戦略の転換により、人材マネジメントの見直しが行われる。
もっとも、より現実的には、買収前は伝統的な大会社の一部門で、それゆえに人材の質も処遇水準も、半ば自動的に高かったのが、事業や子会社単位で売却され、その企業規模なり、事業内容なり、あるいは所在地なりの観点から、買い手が改めて人材と処遇内容を見直したときに、やはり同業他社(市場相場)よりも人材がオーバースペックで、コストも高い、という結論になることがある。さらに、売り手のこれまでの内部管理の都合で、人材の質は普通で、単にコストだけが高止まりしている、ということもある。
もちろん人材には、例えばベテラン従業員の持つ経験値のように、すぐに代替することが困難な要素がある。つまり、単に頭数が揃えば誰でもよい、と割り切って考えるべきでない。しかし、あまりその点に囚われて経営的な思考が停止してしまうと、今度は事業が競争力を失う。つまり、他社は、何らかの工夫によって、適切な品質の人材を適切なコストで調達している、ということになると、事業の利益、ひいては中期的な事業の競争力を圧迫しかねない問題となる。
また、買収が企業全体でなく一部の事業の買収、全体からの切り出し(カーブアウト、Carve-out)であるがゆえに、買収前よりも規模が小さくなってしまった場合では、ベネフィット(福利厚生、Benefits)などのコストが、加入規模により大きく増加することがある。
さらに、今回の買収の前から、すでに買い手が同種の事業をその地で保有していて、今回の買収先の処遇との差が明らかに違う場合に、処遇の格差が原因で組織統合が進まないこともあろうし、組織は統合したが、制度は統合できずに人事的な運営がやりにくいのが課題となることもあろう。
そして、ここに買収先の業績の悪化が加わると、従業員の処遇見直しのニーズ(社内的圧力)はさらに高まる。Comparability Periodが明けた、あるいはもうすぐ明ける、ということであると、なおさらである。もちろん、人件費が買収先のコスト全体に与えるインパクトは冷静に見る必要がある。しかし、業績悪化が甚だしければ、自ずと「できることはとにかく全部手を付ける」という取り組みにもなろう。
従業員の処遇は見直すことができるのか
従業員の雇用や処遇の見直しには、法令の定める従業員保護的な制約があり、社会的にも何らかの規範的な要請があるのが通常である。もちろん、国によってその内容や程度は違うが、どの国においても、これらについて慎重に検討しなければ、企業は高い代償を払うことになる。このため、企業はまず適切な改革のゴール(到達点)を設計し、次いで従業員に丁寧にコミュニケーションをはかり、誠実・丁寧に移行の手続きを踏み、個人に負担が生じるところには適切な対価を支払って(会社としてはコストをかけて)、状況を円満に打開するのが通常である。このように、見直しの交渉は難航するかもしれないが、通常は、見直す道がないわけではない。
この問題を上手に解くコツは、1) 従業員を一様に捉えずに、セグメントに分けて理解し、打ち手を考える、2) 合理的でフェアな選択肢を用意して従業員に選択させ、その際には従業員が望ましい選択をするように会社からうまく働きかける、3) 成長のために会社の進む方向が変わり、これに伴って各人の仕事も変わる、といった大きなストーリーの中で、今回の見直しを説明する、と言ったことである。要するに、固定的な状況下での現状の組み替え、と捉えずに、あちこちに調整の糊代を持たせながら、全体として将来に希望が持てる姿へと移行する。つまり、人事処遇改革でなく、全社改革あるいは事業構造改革に仕立てる。典型的には、今の従業員全員を新しい船に乗せる必要もなく、新しい船に乗ることを選ばない従業員がいてもよい、という建て付けを取るのである。
改革がこのような性質のものであるがゆえに、打ち手は自ずと人材マネジメント全般に係わる広範なものとなる。その分、検討範囲が広くて大変であるが、逆に、良い解のセットが見出せる可能性も高まる。
従業員の処遇はどのような観点から見直すのか
図1は、従業員の処遇について、市場との整合性を取る余地があると思われるときに、その当否、内容、程度を見極めるため、一般にどのような検討の視点があるのか、一覧で例示したものである(米国の例)。
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