リスクと不確実性の認識
-- 福島原発事故、新型コロナ危機は、日本が国家も社会も国家的危機に極めて脆弱な体制であり、危機を国家安全保障の課題として捉える意識と態勢が不十分であることを突きつけました。日本の危機対応の弱さの背景にある国家安全保障リテラシーの実態とあるべき姿についてお聞きしていきたいと思います。
「一言で言うと、日本には、有事の際、国民を守るための政府と国家の体制、法制、規制、組織文化、リーダーシップのあるべき姿についてビジョンとガバナンスを欠いていることが露呈されたのです。
社会も個人もリスクから逃げて生きていくことはできませんし、リスクを取らなければ新しいものを産み出す進歩もありません。しかし日本には、リスクをあたかも悪である、リスクはゼロにしなければいけないといわんばかりの風潮、社会通念が蔓延してしまっています。
そうした風潮を産み出す要因はたくさんあると思いますが、本質は、リスクはマネージできるが不確実性(uncertainty)はマネージできないということについての認識が不十分なことだと思います。これについては第1次、第2次世界大戦の両大戦間期に、経済学者のメイナード・ケインズとフランク・ライトの2人がほぼ同時期に発表した研究*が有名です。リスクとは『数量化できるもの』、不確実性とは『数量化できないもの』で、リスクと不確実性には大きな違いがある。そこをしっかりと峻別し、経済学は今後この不確実性に目を向けていく必要があると指摘しました。
要するに、リスクは数量化できますからマネージが可能で、社会も各組織もリスクに備えなければいけない。しかし、不確実性は数量化できませんからマネージが難しいのです。その不確実性について、できもしないこともあたかもできるかのように言う、特に政治家、メディアがいることが問題です。国家安全保障の領域は、リスクと不確実性にいかに対応するかというもっとも困難な国家統治の領域です。この課題に正面から向かい合って来なかったことがリスクと不確実性に対するリテラシーの欠如をもたらしているという側面があると考えています。今回の新型コロナのパンデミックという不確実性の高い出来事について、政治学者のヤン・ヴェルナー・ミュラー・プリンストン大学教授は、コロナ危機が長期化し、政府のコロナ対応に対する人々の不満が高まると、『結果正当性』と『パフォーマンス正当性』への国民の希求が高まり、明快な回答と確実な明日を約束する強権ポピュリストに人々は惹かれるようになると指摘しています」
*1921年、フランク・ナイトは主著『リスク、不確実性および利潤』を出版、ケインズも同じ年に『確率論』を出版している。
破綻した“安心ポピュリズム”
「地政学及び地経学的脅威で現在最も不確実なのは、米中対立の激化と既存の国際秩序とルールの崩壊ですが、今世紀に入ってからはAI(人工知能)とバイオをはじめとする第4次産業革命がその受益と裏腹のリスクゆえに深刻な問題を我々に投げかけています。
最近、平野啓一郎の『本心』という小説を読みました。自由死が合法化された近未来の日本が舞台で、最新技術を使って生前そっくりの母を再生させた息子が自由死――つまり安楽死ですね――を望んだ母の本心を探ろうとするSFです。そういう世界になった時、人間の自立、責任、個人の個というものは一体どうなるのだろうかと考えさせられました。イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリが警鐘を鳴らしたように、ビッグデータとアルゴリズムをバイオと結びつけることで、精液、子宮から墓場まで人間生活を丸ごと制御することによって『個と個性の解体』(de-personalization)を生じさせる恐ろしい世界が現出するかもしれません。
これは、言ってみれば究極のリスクとも言えますが、