1.はじめに
2020年、コロナ禍の嵐が吹き荒れる前代未聞の状況の中、多くの企業において、急激な売上減少に伴うキャッシュフローの悪化が観測された。米国ではボーイングのように、自社株買いや高配当で積極的に株主還元を進めていたために、債務超過に陥るまで財務状況が悪化し、コロナ危機を契機に財務的困難に陥る企業も現れた。予想外の経済ショックにおいては、現預金が緩衝材(スラック:slack)の役割を果たすことは知られており、企業の現預金保有の在り方について、改めて考え直す動きが強まっている。本稿では、企業の現預金保有が、
株主資本利益率(ROE)、資本コスト、ベータといった指標にどのような影響を与えるか、を中心に考察する。
ここ数年、企業の現預金保有は、そのネガティブな面が強調されてきた。現預金保有の多い企業は、
アクティビスト(物言う株主)のターゲットになり、株主提案や公開質問状の形で、配当や自社株買いの増額による現預金の株主への還元を求められてきた。現預金保有のマイナス面として、企業の収益率指標との関係でいうと、資本の収益率、特にROEが低下することで、株主から問題視されるという点がある。
以下では、事例を用いて、現預金保有が、簿価ベースで計算されるROEや
ROIC(投下資本利益率)、時価ベースで計算される資本コストやベータに対して、どのような影響をもたらすのか。また、配当や自社株買いによって、現預金残高を削減した際に、それらの指標がどのように変化するのか、といった点について、理論的考察を加える。
2.現預金残高、株主還元とROIC、ROEへの影響
以下の説明にあたり、総資産が簿価ベースで10億円(1,000百万円)の仮想の企業を例に考察していく。この企業は、現預金で3億円(300百万円、簿価=時価)を保有しており、この現預金は、非事業用資産(事業の継続に必要ない余剰現預金)であって、リスクフリー金利(税引前0.5%と仮定)で運用できるとする。また、総資産のうち現預金以外の部分は、全て事業の継続に必要な事業用資産(=企業の投下資本)であり、そこからは、税引後営業利益(NOPAT)ベースで、毎年65百万円の利益を永久に生み出すと仮定する。現在この企業は、現時点では資金調達の全てを株主資本で賄っており、負債は存在しないとする。法人税率は、30%と仮定する。
まず、図表1で、現状でのROEとROICについて貸借対照表の形で表わしながら、確認しておこう。なお、会社の本業の利益率を示すROIC(対投下資本、税引後営業利益率)であるROICは、以下の計算式で計算される。
ROIC = NOPAT(税引後営業利益)÷ 投下資本(事業用資産)簿価残高
この企業の借方は、300百万円の現預金(税引前金利0.5%)と700百万円の投下資本で構成されており、