[Webマール]

(2024/01/05)

競争に向き合いつつある時代

――「敵対的買収」の記憶と買収が競争的に行われる時代の意味

大森泰人(金融・経済・人間研究者、元証券取引等監視委員会事務局長)
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1.第一生命保険の記憶

 本誌の性格上、読者はこの小見出しから昨年暮に「よもや、あの第一生命保険が」と世間を驚かせた敵対的(同意なき)買収を思い浮かべるかもしれないが、この件を専門的に論じる能力もないので第一生命と敵対的買収の個人的な記憶を書くにとどめる。そして、買収が競争的に行われ、もはや職場の予定調和に安住していられない時代になる意味を及ばずながら考えてみたい。

 企業間の競争は昔も今も活発だが、労働市場の流動性が低く企業内の個人間の競争が低調なのが、今に至るこの国の低生産性と低所得の根底にある気がしてきた。年齢や性別を問わない企業内での競争は労働者の精神衛生上はかなり生きづらく、年下の女性上司が現れるくらいなら、終身雇用と年功序列を維持してくれるほうがオヤジにはありがたい。

 別にオヤジでない若者も女性も、今のところ上司はオヤジである職場環境に落ち着くのが多数派の感覚と言えるだろう。が、最近では自発的な転職を企業年金や雇用保険の制度が邪魔しないように変更して構造的に転職賃上げを促す政策も始まり、買収を競争的に行うのもこうした政策変化と軌を一にしている。

 敗戦国の官僚だった私は長くアメリカをモデルとして意識してきた。格差がひどく生きづらい国には違いないが、生きづらさを克服しようと競争する個人のエネルギーが国としてのエネルギーに転化しているようにも見える。

 2015年夏に金融庁を退官してしばらく世界を放浪した後、第一生命のシンクタンクに活動拠点を提供して頂いた。在任中、第一生命の経営陣から若手までさまざまな意見交換の機会があり、同社が今後の生命保険業に強い危機意識を持っているのを感じた。

 まず、第一生命は大手生保で唯一上場しているので、証券市場での評価を意識せざるを得ない。海外の事業展開や銀行窓販の活用で大手生保の先陣を切ったのも市場に導かれた経営に見えた。銀行窓販は銀行と生保の契約に基づく販売方法の選択肢に過ぎないが、制度が始まった頃は、「銀行を巻き込んで競争させないでくれ」と生保業界をあげて強く反対していた。が、有効な選択肢と判明し市場が評価すれば、上場企業として使わない選択肢はない。

 また、証券市場で起きる新たな動きには注目せざるを得ず、官僚としての私は証券市場に関わった期間が長かったので、時に意見を求められた。親会社が上場子会社を第三者に売る場合、第三者は上場子会社の一般株主からはTOB(公開買付け)により取得し、親会社保有株は上場子会社が自己株取得する方法が行われる。例えば、日立製作所がこの方法でみなし配当の益金不算入の税務メリットを利用すると報じられれば、第一生命は我が事として捉える。

 日立の場合は親会社主導の構想だろうが、第三者としての第一生命がベネフィット・ワンの親会社のパソナグループと上場子会社のべネワンに「賛成してくれればやりますよ」と提案するのが今回のスキームになる。TOBを先行していたエムスリーは無論困っただろうが、税務メリットを一般株主に還元するのをパソナやベネワンは反対しにくい。

 一般に「敵対的」買収とは、買収する株の発行体が反対する場合を言うから、今では「同意なき」買収と呼ぶが、発行体と親会社の同意を要件としている今回の第一生命のスキームは、エムスリーと第一生命が「競争して」買収するのが事柄の本質になる。生保が安定株主だったのは昔話に過ぎない。

 さらに第一生命には、学びを重んじる企業文化のようなものもあった。自分の担当事業分野を学ぶのは当たり前だが、偉くなるほど幅広い教養を求める研修が課される。役員から、「今の課題本はクラウゼヴィッツの『戦争論』なので難しくて困ってます」と言われた時はさすがに同情した。この本はプロイセンの歴史に通じていないと十分に理解できず、腹に落ちるためには相当の苦難を必要とする。昨年第一生命が出した競争的TOBのプレスリリースには、普段から証券市場で起きる新たな動きを我が事として学び、冷静かつ合理的に判断しながら、この国の敵対的買収の不幸な歴史にも配慮した痕跡が感じられる。

 より差し迫った生命保険業の課題は、営業員(生保レディ)のGNP(義理・人情・プレゼント)営業に今後どこまで依存できるかである。総中流の国民が次第に豊かになれた時代には、家計の相当部分を保険に回せた。が、高学歴のパワーカップルさえ、子供に十分な教育を施し、かつ自宅を持とうとすれば、もはや保険に多額を費やすゆとりはない。新しい事業分野や販売方法を開拓する必要性は、開拓の仕方についてもはや慣例を配慮している場合でないと判断させたのかもしれない。

2.村上ファンドとライブドア




■筆者プロフィール■

大森 泰人(おおもり・やすひと)

大森 泰人(おおもり・やすひと)
1958年生まれ、東京大学法学部卒業。1981年大蔵省(現・財務省)入省。大蔵省証券局市場改革推進室長、東京国税局調査第一部長、近畿財務局理財部長、金融庁証券課長、金融庁市場課長、金融庁企画課長、証券取引等監視委員会事務局次長、内閣府震災支援機構設立準備室長、復興庁審議官を経て、2013年金融庁証券取引等監視委員事務局長に就任。2015年金融庁退官。退官後は複数企業の社外取締役、監査役、顧問等を歴任

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